湧き水いろいろ情報
水の都の歴史
1. 洪水多発の要因
大垣市は、古くから洪水がよく起こる地域でした。その自然的要因は、東高西低の濃尾平野造盆地運動と木曽三川の合流です。
濃尾平野は、平野自体が傾きながら沈降する沈降盆地域に属しています。
そのため、三川の河床高(かしょうだか)の相違が生じ、木曽川が最も高く、長良川、揖斐川の順で低くなっています。
また、三川の流路は、西から順に揖斐川が最も短く、次いで長良川、木曽川の順に長く、かつ、雨域は西から東へ移る場合が多いため、洪水の出方は揖斐川が最も早く、次いで長良川、木曽川と続き、昔から「四刻・八刻・十二刻」といわれるように、8時間ほどの時差がありました。
このため、出水時には、それぞれの合流点で水位の高い木曽川の流れはより低い長良川へ、さらに揖斐川へと逆流し、水位の上昇をもたらしました。
海津市の高須輪中南端の合流点では、長良川を合流してきた木曽川と揖斐川との水位差は2.6m以上にも及び、出水すれば木曽川が揖斐川の水流をふさぐため、揖斐川の水が逆流水となってこの地域の水害を激しいものにしてきました。
2. 大垣輪中とその開発史
囲堤(かこいつつみ)によって洪水防御をしてきた水防共同体の各輪中(わじゅう)も、治水事業の進行に伴う洪水の減少や、排水機出現による内水処理、さらには土地改良事業による圃場整備(ほじょうせいび)、用排水路の再構築等、輪中近代化による変容により大きく変貌しました。
3. 水害対策
水屋
破堤(はてい)入水時には屋敷地も冠水するので、屋敷内の一部をさらに盛り土して緊急避難所の水屋を建てていました。なかには屋敷地全体を水屋の敷地と同じくらいに高く、土盛りして家屋などを建設している、いわゆる「水屋式住居」もありました。
水屋などがない場合には、破堤時に残っていた堤防に避難しましたが、寺院や神社などの敷地を高くして公共の避難所としていた所もありました。水屋は、主屋の敷地より高く土盛りした所に建つ主屋とは別棟の独立した建物で、洪水時に使用される個人的な緊急避難場所であるとともに、米・味噌・たまりといった避難時に必要な主穀や調味料を保管し、平常時には重要な什器類(じゅうきるい)や衣類などの倉庫でした。
堀田
輪中用の水田湛水化を克服する方策として「堀田」が生み出されました。
堀田とは、田面の一部の土を掘り取ってその土を隣接することによりできた「堀上田」と、掘り取った跡の「堀潰れ」を総称して呼んだ呼称です。
現在では、土地改良事業が行われ、散在していた農地は集積(換地)され、圃場(ほじょう)の形や面積も機械化農業に対応できるものとなり、悪水落江や堀潰れは農地や道路となり、用排水施設も整備されました。
4. 船運と南北交通
揖斐川
江戸時代初頭、伊勢湾方面からの物流は、揖斐川水系の美濃三湊(烏江・栗笠・船付)を経て、牧田から陸路九里半街道を経由して琵琶湖に至りました。
三湊は、琵琶湖水運と九里半街道によって大量の商品を安価に輸送する河川交通の中継地の役割を担っていたのです。しかし、城下町でもあった大垣は美濃路の宿場町でもあり、大垣湊と結びついて水陸両面の物資輸送の拠点となってその重要性は増していきました。
三湊が衰退した理由は、大垣湊の隆盛以外に、牧田川の治水問題が関連しています。
扇状地河川の牧田川は土砂供給量の多い天井川のため出水のたびに村々に損害を与えていました。村々は元禄年間、正徳年間及び享保年間中に出水毎に川幅拡張工事を農民が費用を出して堤防の築造・修理、橋梁の掛替を行いました。そのため、三湊に土砂堆積が進み、湊が埋まる問題が起こりました。文化年間 (1804-1817) までは喰違堰(くいちがいぜき)の通運は可能でしたが、土砂堆積によって水路が塞がり、比較的大きな平田船から小回りのきく小型の鵜飼船の通行に切り替わり、船数・輸送量とも減少していきました。
さらに鉄道の開通がその差を拡大していきました。明治17年に大垣駅まで鉄道が開通すると、大垣湊から水門川を遡って大垣駅まで河川交通が伸び、伊勢湾・日本海ルートとしての物流拠点として補完関係にある大垣湊の重要性が一層高まっていきました。
杭瀬川
杭瀬川は、享禄3年の大洪水によって、現在の河道となりました。杭瀬川の水面勾配は非常に緩く、平均水深約1.0mの河川で、年間を通して水量が安定していたため江戸時代から水運が盛んな河川でした。その中心地は中山道が交わる赤坂で、杭瀬川筋から牧田川を経て桑名方面に連絡していました。
諸藩の蔵米や材木、酒などを輸送するとともに、旅人の交通路としても大いに利用されていました。
明治25年に水深6尺余の市橋湊が開発され、最盛期には260隻余の共船組合も組織され、石灰業の発展とともに繁栄していましたが、昭和13年ごろ杭瀬川河川改修とともに衰退していきました。
水門川
揖斐川の支派川である水門川はその源を大垣市中川町付近に発し、大垣輪中北部の湧水を集めて揖斐川に注ぐ全長14.5km、平均勾配4千~6千分の1の典型的な平野河川です。
城下町の外堀的機能を持たせるため、町割り(土地を区画整備すること)に直行するように改修されました。元和6年には杭瀬川と水門川を結ぶ水路が開設され、赤坂湊と大垣城下の船町「大垣湊」を直結させました。
このころから揖斐川の河床が上昇して天井川化(川底が、周辺の地面の高さよりも高い位置にある川)したため、水門川が揖斐川に流れ込む合流地点から、増水時には揖斐川が水門川に逆流して大垣輪中に水害をもたらすようになりました。
このため、大垣藩主戸田氏鉄(とだうじかね)は寛永13年合流点の川口村に樋門(ひもん)を造り、さらに承応2年に逆水樋門を建造しました。元禄11年には改修工事を実施し、舟運の便が一層良くなりました。
丁度このころ日本の流通経済が全国土を基盤として発展していく時期であり、東回り、西回りの海運、琵琶湖水運、淀川水運、利根川水運などの発展と同じく水門川水運も発展していきました。
大垣湊のある船町は、大垣城下10か所の商人町のひとつで美濃路と交差する場所にあり、大垣藩の年貢米輸送など藩の御用を勤めるとともに商品を取り扱う船問屋が置かれ、水門川水運の物資集散地として年々発展しました。
物流としての南北河川交通は明治以降も衰えず、明治16年には小蒸気船が濃勢講社によって大垣・桑名間を運航しました。蒸気船は1日2往復、下りが5時間、上りが7時間を要しました。翌17年5月には、鉄道が開通し、大垣駅が設置され、水門川の水運と鉄道が結びつき河川交通の重要性がますます増しました。鉄道と舟運とは取り扱う貨物内容が異なり、互いに共存して発展していきました。
戦後になると水門川の改修工事がなされた結果、水位が下がり、船町にあった大垣卸売市場も古宮町へ移転しました。さらに、自動車が普及すると舟運の衰退はますます顕著となり、大垣湊は川湊としての役割を終了しました。
5. 家庭での地下水利用
どの家にも昔は井戸が掘られ、生活の重要な位置を占めていました。
井戸舟は、高低差をつけた囲いで、水を溜めたり、流したりできるようになっていました。
1番高い所は、お米に水を含ませたり、野菜を洗う等に使用し、2番目は、「冷やし缶」といってブリキの箱で野菜を冷やし保存したり、時にはおかずの残りものを入れたりしました。
また、上からひもをぶら下げ、そこにやかんをつり下げ、お茶を冷やし、その下の所では、洗い場として食器などを洗いました。
6. 工業の発展
明治末になると、木曽三川分流工事によって水害の危険性が減少し、大垣は、近代的工業のための良い条件を十分に備えていました。
広大な土地、鉄道の利便性、豊富な工業用水、電力供給、自噴水などの良好な立地条件を生かすべく、資本導入、工場誘致の努力が続けられました。
工場誘致を図るには安い電力が必要であったため、揖斐川水系に発電所を設置することが考えられるようになり、明治39年 (1906) にその許可を得ました。
大正元年 (1912) 、電力のみの経営を行うことになった揖斐川電力株式会社が、揖斐郡坂内村大字坂本にダムを設け、大正4年9月に、工事が完成し、翌10月から発電能力4000kwで、供給を開始しました。
これにより、摂津紡績大垣工場、田中カーバイド工場などが設置されました。
第2次世界大戦後の高度経済成長に伴って地下水の揚水量が増大すると、当地域に多大な恩恵を与えてきた自噴性地下水も急激に圧力が低下し、自噴帯は急速に後退していきました。
河川や水路は、船運の交通路や食事・洗濯など生活用水としての利用から排水路としての利用に変わっていきました。
市民の意識が河川や水路に向けられなくなると、ますます環境は悪化し、郊外開発による湧水箇所の減少も重なり、「水都」大垣らしさの喪失が危惧されるようになっていきました。
7. 地下水の保全に向けて
昭和46年 (1971) 3月、国と岐阜県により、地下水利用適正化報告書が公表され、地下水の過剰揚水が指摘されました。
同月には、大垣市地下水対策審議会が設置されて、地下水の保全方向について諮問し、昭和47年 (1972) 市長あてに地下水の保全に関する答申を行いました。
答申には、地下水取水の規制、関連条例等の制定、地下水利用方法の分析、地盤沈下対策及び水位観測等の実施が盛り込まれました。
市議会においても「地下水対策特別委員会」が設置され、市民の間にも「地下水を守る会」が結成されました。
昭和49年 (1974) 6月には、「西濃地区地下水利用対策協議会」が設立され、現在は、大垣市をはじめ、海津市、垂井町、神戸町、輪之内町、養老町、揖斐川町、大野町及び池田町の2市7町とその区域の地下水を利用する事業所や商工団体、国、県が加盟し、地下水利用の適正化を推進しています。
近年は、地下水保全の取り組みや大規模工場の事業転換などにより、地下水位は上昇しており、湧水も復活しつつあります。
8. 水に感謝する祭り
大垣は古くから「水の都」と呼ばれ、良質で豊かな地下水に恵まれてきました。こうした水の恵に感謝し、あわせて商店街の繁栄を祈願するために大垣実業組合連合会が、昭和11年 (1936) 7月に市と商工会議所の後援を得て始めたのが「水のまつり」です。戦時中一時途絶えましたが、昭和23年 (1948) には「水都まつり」として復活し、平成7年 (1995) に「水まつり」、平成23年 (2011) には「水都まつり」と改称して今日に至っています。
西南濃地域に湧き水が多い理由
帯水層と水理地質構造
濃尾平野では、西部の地盤が沈降し、東部では隆起する地殻運動(濃尾平野造盆運動)が現在でも続いており、この断層によってできた逆三角形の凹地へ、木曽川、長良川、揖斐川の三大河川によって運ばれてきた土砂が堆積し、今日の濃尾平野を形成しています。
土砂が堆積する過程のなかで、砂層、礫層、粘土層など幾重にも積み重ねてきましたが、特に西南濃地域の地層は、礫層が分布し、地下水が充満する帯水層の役割を果たしています。
この中部傾動地塊の運動は今日の中部山岳地域の尾根をなす日本アルプスなどを含む著しい隆起産地を生み、第四紀の隆起量が全国で最も大きい地域となっています。
これらの広大な隆起山地は、濃尾沈降盆地を埋積する物質を供給する源となったばかりでなく、木曽三川水系を育み、濃尾平野に豊富な水資源を供給しています。
もちろんこれらの河川水系のもたらす水は濃尾平野の地下水としても供給され、ここに豊潤な地下水盆が誕生することとなりました。
1950年代後半から濃尾平野南部の工業開発が盛んになったとき、工業用水確保のため平野の深い帯水層を求めて多数のボーリング調査が行われ、その結果地下構造が次第に明らかになりました。
濃尾平野の地質構成は、沖積層・鮮新統・中新統・基盤と規則正しく重なり、かつ傾動地塊運動の結果、各地層は平野東部では浅く、平野西部では次第に深く厚くなるという堆積状況を示しています。
特に、沖積・洪積層は海水準の変動と背後地の運搬・堆積様式の変遷により、細粒から粗粒へと堆積相が複雑に変化しています。
また、濃尾平野の沖積層の下には、河成の厚い礫層が何層かあり、伊勢湾北部から濃尾平野にかけての地下に広く分布しています。
これらの礫層は、上下を不透水性の粘土層にはさまれて被圧地下水の良い帯水層となっており、上から順に第1礫層、第2礫層、第3礫層と名付けられています。
これらの第四紀層はいずれも東から西へ傾き下っていて、養老山地のふもとを走る養老断層の所で断ち切られています。またその勾配は第1礫層の最下部で1000分の3.5、第2礫層の最上部で1000分の6.0と下部へ行くほど大きくなっています。
これは少なくとも第3礫層堆積よりも前、おそらく100万年以上前から養老断層の活動を伴いつつ濃尾平野西部が沈降し、反対に東部の丘陵や山地が隆起するといった傾動運動が継続してきたことを意味しています。
大垣自噴帯は、全国でも最も規模の大きいもののひとつで、西は養老山麓、東と西は木曽川、北は揖斐川扇状地で囲まれた地域にありました。
この自噴性被圧地下水は、山地から平野へ移る扇状地域で主に木曽三川とその派川によって涵養(かんよう)されたものです。とりわけ揖斐川による涵養が大きいです。
濃尾平野の地層と地下水の流れ
濃尾平野の地質断面(中部地方整備局木曽川下流河川事務所 平成18年度濃尾平野地下水利用調査業務より)(PDF: 859KB)
濃尾平野の大垣市を含む地図上のE-E′の面の地質断面(東西断面)です。
濃尾平野は、岐阜・西濃地域から愛知県、三重県方面に向けて広がっていますが、その地下には、厚さ400mにも達するといわれる地層が存在しています。その中でも特に、第1礫層 (G1) 、第2礫層 (G2) 、第3礫層 (G3) 、と呼ばれる3つの地層が、地下水を多く含む地層となっています。
第1礫層、第2礫層、第3礫層における地下水の流れ(岐阜県 令和3, 4年度 水循環解析調査業務より)(PDF: 3.54MB)
揖斐川、木曽川、長良川から地下水が西濃地域に流れ込んでくる様子が分かります。
湧き水の由来
河間(がま、ガマ)
西濃平野周縁部の扇状地で涵養された地下水は、被圧地下水となって流下するばかりでなく、一部は扇状地末端部で湧出しています。
この扇端湧泉を西濃地方では河間と呼んでいます。河間は西濃地方の扇状地末端部に広く分布していましたが、地下水の揚水量増加や土地改良事業の実施等によって減少し、現在河間が残っているのは、大垣市内では、北方町、西之川町、矢道町です。
出典:『大垣市史 輪中編』 『大垣市史 民俗編』
湧き水を活用した市の特産物
水都大垣を味わおう
大垣の地下水の温度は年間を通して平均15℃。その豊富で安定した地下水を活かした水都大垣の“おいしいもの”をご紹介します。